虎の事件簿

No.24 竹之内コーチ、シーズン途中退団

1987年6月6日対大洋戦第7回戦(札幌・円山)、大洋2点リードで迎えた8回表、阪神は先発新浦寿夫投手を攻め、無死満塁のチャンスを作る。
しかし6番佐野仙好の打ち上げた打球は浅いレフトフライだったため、三塁走者はタッチアップができなかった。
打順はこのあと新人八木裕、嶋田宗彦と続く。
阪神の代打陣には、田尾安志、柏原純一が控えており、多くの人がここで代打を出すと思った場面だった。
しかし、当時の吉田義男監督は代打を送らず、八木、嶋田をそのまま打席に送る。
結局この回、八木のセカンドゴロの間に1点を返しただけにとどまり、試合は3−6で敗れた。


阪神ナインが宿舎に戻った後、吉田監督の部屋に竹之内雅史打撃コーチ補佐が訪れ、8回の場面で代打を使うべきだったと意見を述べた。
これに対し吉田監督は「監督は勝負に勝つという仕事以外に、若い選手を育成する仕事もある。それに八木、嶋田に打たせたのは、並木(打撃コーチ)とも話し合って決めている。」と返答したという。


しかし、吉田采配に不満を積もらせていた竹之内は、翌日6月7日の大洋戦の試合前、室山チーム担当部長に「打撃不振の責任をとって辞任したい」との理由で退団を表明、チームに同行せずに単身で大阪に帰り、聞く耳を持たない吉田監督に三下り半をつきつけた。
結局、竹之内コーチは6月16日に正式退団となる。


その後も8月15日にバースが「楽しくなくなった仕事はやめる」と退団をほのめかしたり、8月16日に並木打撃コーチが「辞めたい」ともらしたりと、チームは空中分解寸前となり、結局1987年は最下位というどん底を味わった。
そして10月12日、吉田監督の解任を発表。
2年前の1985年にセ・リーグ優勝、日本一を果たした第二次吉田政権は、3年目に終焉をむかえた。


竹之内雅史(たけのうち・まさし)

1945年3月15日生まれ/右投右打
鎌倉学園−日通浦和−西鉄・クラウン−阪神
1979年、田淵・古沢−真弓・若菜・竹田・竹之内のトレードで阪神に移籍。西鉄時代はサードを守る。阪神では主に外野を守った。1982年の引退まで1371試合に出場、生涯打率は.249、本塁打216本、打点606、盗塁63。通算最多死球166は2003年巨人・清原和博に抜かれたが、ゲーム最多死球3は現在でも日本記録である。


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