虎の事件簿

No.19 江川問題(空白の一日事件)

高校時代「怪物」と呼ばれた江川卓は、1973年のドラフトで阪急から1位指名を受けるが、これを拒否して法政大学へ進学する。大学卒業時には巨人入団を熱望するが、1977年のドラフトではクラウンライターから指名を受ける。が、これも拒否し続けた。


かつて、野球協約には下記のような内容の項目があった。

交渉権を得た球団はその選手に対し、翌年のドラフト会議前日まで交渉権を持つ

つまり、ドラフト会議前日の午後11時59分59秒まで交渉が可能ということである。
ここで、現実的にはあり得ない話だが、このリミットの午後11時59分59秒まで交渉を行い、翌日の朝にドラフト会場へ移動しようとした時に、交通トラブルなどで会場へ行けなくなったらドラフト会議に混乱をきたしてしまう。と、こんなことを考えた人が居るらしく、野球協約が下記のように変更になった。

交渉権を得た球団はその選手に対し、翌年のドラフト会議前々日まで交渉権を持つ

この変更により、ドラフト会議前日に「空白の一日」が生じた。しかし、これはドラフト会議の混乱を防ぐためだということは、12球団すべて了解していたはずだった。


1978年のドラフト会議は11月22日なので、上記の野球協約により、クラウンライターの江川との交渉権は、11月20日午後11時59分59秒をもって消滅。そして、翌11月21日に事件が発生する。
それは空白の一日を利用して、巨人が江川と契約したという発表だった。
巨人はすぐにセ・リーグ事務局へ江川の選手登録申請を行うが、当然のごとく却下される。そして、空白の一日を利用し、球界の不文律をわきまえず、その行為を正当化しようとした巨人に、他の11球団がこぞって反発したのは言うまでも無い。


巨人は11月22日のドラフト会議を欠席、ドラフト会議自体の無効を主張した。
しかし、ドラフト会議は予定通り進められ、江川に対しては阪神、南海、ロッテ、近鉄の4球団が1位指名。抽選の結果、阪神が交渉権を獲得するが、江川サイドは阪神サイドとの接触を拒否し続けた。
ところが事態は急変する。12月22日、12球団代表参加の実行委員会の席上、金子コミッショナーは次のように発言し、周囲を唖然とさせた。

指名権をとった阪神と、巨人の間でトレードを行う。4月7日の開幕日を待ったのでは遅すぎるから、2月1日のキャンプインまでにトレードを実現させる。このことはあくまでも特例のものだ。

その後、年が明けた1979年1月7日に阪神は江川サイドと初めて接触し、1月31日に契約。そして阪神は巨人に対し、交換相手として小林繁を指名。
キャンプイン直前に突然のトレード通告を受けた小林だったが、泣く泣く移籍を了承。2月1日に阪神・小津球団社長、巨人・長谷川実雄球団代表が出席のもと、江川と小林繁のトレードが発表された。
1979年のシーズン、怨念が後押ししたのか、小林は巨人戦に8連勝、17完投うち5完封の22勝をあげ、最多勝利投手、最優秀投手、沢村賞を獲得した。
一方、江川は6月2日に阪神を相手にプロ初登板。阪神はスタントン、若菜のソロホームラン、そしてラインバックの逆転3ランで、プロの洗礼を浴びせた。


江川卓(えがわ・すぐる)

1955年5月25日生まれ/作新学院−法政大−南カリフォルニア大学−阪神−巨人
右投右打/ちなみに阪神での背番号は「3」
実働9年間、MVP1回、最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、ベストナイン2回。生涯成績は266試合135勝72敗、防御率3.02。
1979年6月17日の広島戦で先発し初勝利をあげるが、8回に突然鼻血を出して降板したらしい。
引退セレモニーは東京ドームのコケラオトシの日、試合前に掛布が打席に立ち、たった1球投げるというものだった。江川は掛布について「試合に勝とうが負けようが、掛布を討ち取ることに全力をかける。この打者さえ打ち取れば、試合に負けてもいいという気になって投げていた。そういう気になれる打者はなかなかいない。」と話す。
大のワイン好きで、1996年11月には社団法人日本ソムリエ協会よりソムリエ・ドヌール(名誉ソムリエ)に認定される。著書に「夢 ワイン 」がある。

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