虎の事件簿

No.18 田淵幸一、西武へ放出

1968年ドラフト1位で阪神タイガースに入団した田淵幸一は、2年目の1970年8月26日、人生最悪のデッドボールを受ける。これが原因で、田淵の左耳は難聴になってしまう。
このデッドボールの後遺症のせいか、捕邪飛があがると、田淵は時に方向違いに走るケースがあった。


1978年10月11日、阪神は球団社長に小津正次郎氏の就任を発表。社長に就任すると小津は世間を驚かすための手を考える。
そして、最初に思いついたのが外国人監督の起用。11月4日、ドン・ブレイザーの監督就任を発表すると、さらに次の手を考えるのだった。


1978年10月12日、パ・リーグのクラウンライター・ライオンズが消滅。新球団として西武ライオンズが誕生した。
新球団を大きくアピールするためには、目玉選手が必要。当時の堤義明オーナーは、そう考えたと思われる。


デッドボールの後遺症が残る田淵、新社長として張り切る小津、合理主義者の外国人監督ブレイザー、新球団のアピール策を模索する堤、これら点と点が線になり、田淵のトレード話が持ちあがる。
1978年11月15日深夜、小津社長は酔っ払っていた田淵を呼び出すとトレードを通告。
「とにかく西武へ行って、根本陸夫監督から野球を勉強して、また阪神へ戻ってこい。」
これに対して田淵は「じゃあ、来年タイガースへやってくるブレイザーは、いい監督じゃあないんだ」と応戦したという。


結局、1978年11月23日夜、田淵、小津社長、西武・根本監督の三者会談が行われ、田淵はトレードを承諾。
1978年12月6日、阪神は田淵幸一、古沢憲司の2選手を放出、西武から竹田和史、若菜嘉晴、真弓明信、竹之内雅史の4選手をトレードで獲得することを発表した。


1978年11月24日付けのスポーツニッポンに掲載された田淵の手記の一部に、下記のように書かれている。

温かい声援に十分こたえることができず、いま阪神を去らなければならない。「ことしこそ・・・」と意欲を燃やしながら10年間優勝の喜びを味わうこともなかった。個人的にはプロ入りした1968年に新人王に選ばれ、1975年には王さんに打ち勝ってホームランキングになるなど楽しい思い出もある。だがいまは、ユニフォームを脱ぐ寂しさと重なって、一度も優勝できなかった悔しさがつのるばかりだ。
(中略)
厳しく冷たい中にもフロント、現場を含めて球団全体に最大限の"温かみ"がなければ野球はやっていけないような気がする。こんなことを言える立場ではないかもしれないが、生まれ変わろうとしている阪神に残せる私の考え方だ。

田淵は西武に移籍後、1982年に念願のリーグ優勝、そして日本一を体験。1983年にも連続優勝、連続日本一を体験し、正力賞に選ばれた。


小津正次郎(おづ・しょうじろう)

1934年に阪神電鉄に入社。1978年から1984年まで球団社長を務めた。旧制津中(三重)時代は投手で鳴らした元球児。
江川問題(空白の一日事件)の絡みもあり、「オズ」という名前の響きから「オズワルド」や「オズの魔法使い」などと呼ばれた。
また、初の外国人監督としてブレーザー監督を誕生させたり、田淵と真弓などの大型トレードを断行するなど「ブルドーザー社長」の異名をとった。
一方で当時のファームの練習場が無かったので、浜田車庫前に練習用の球場を作るなど精力的な行動でチーム改革を推進した。また、プロ野球初の球団発行誌となる「月刊タイガース」創刊を実現した。
1998年11月25日に脳梗塞のため、西宮回生病院で亡くなられた。享年82歳。


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