虎の事件簿

No.16 江夏豊、南海へ放出

江夏豊は1966年ドラフト1位で入団。1972年まで6年間連続最多奪三振、1968年、1973年に最多勝利投手、1969年に最優秀防御率、1975年までで完封44試合を含む159勝を記録していた。


1975年、そんなチームの功労者に対する契約更改交渉がもめていた。すると12月26日の日刊スポーツに「江夏放出」の見出しが躍る。南海・江本孟紀とのトレード話が進行しているとの内容だった。
当時の江本は5年目で52勝57敗の成績。
江夏とは通算成績で100勝以上も差があり、正直言って、江夏のトレード相手としては不釣合いだった。
当然のことながら江夏は不信感を抱くが、球団はこれをデマだとして全面否定。しかし、契約の話になると、25%ダウンを提示、飲めないならトレードだと通告。
結局、1976年1月28日に阪神、南海による2対4のトレード(阪神:江夏豊、望月充、南海:江本孟紀、長谷川勉、池内豊、島野育夫)が成立した。


トレード発表の記者会見で、江夏は以下のようにコメントしている。

僕は心機一転という言葉は使いたくない。精一杯やるだけです。今日はちょうど28日(江夏の背番号は28)。この日で阪神の江夏はすべて終わった。

また、江夏の育ての親とも言うべき藤本定義元阪神監督は

世間知らずの野球馬鹿を、あんな惨いかたちで追い出すなんて。江夏は10年に1人のピッチャーです。大投手になれたのは、あのわがままで、ひねくれた性格があったからこそなんですよ。昨年、一昨年と成績が悪かったのは使い方が悪いからです。私が監督のころは、片親がいない貧乏な家庭に育った者には父親代わり、兄代わりになってやったものです。江夏もそうで、父親のいない貧しい家庭環境で育っています。そこのところを知ってやらねばいけません。それを会社や監督は理解してやらなかった。配慮が足らなかった。私は今年の吉田内閣は、そうとういけると踏んで、楽しみにしていたんです。しかし、これで終わりです。残っている計算の立たない10勝クラスでは、とても優勝なんかできるものではありません。

と、今回のトレードについて痛烈に批判している。


当時の吉田義男監督は「フロントが決めたことで、私は知らなかった」と弁明したが、実は1975年オフに江夏のトレードを決断、当時の長田睦夫球団社長に「君は、江夏のトレード話は知らないことにしておこうや」との意向に従って、しらばっくれたと言われている。
また、江夏豊自伝「左腕の誇り」によると、1975年夏に吉田監督のほうから南海・野村克也監督に江夏のトレード話の打診があったと記されている。


ちなみに、阪神は江夏を放出したあと、1976年こそ2位という成績だが、1984年まで9シーズン中6度のBクラス、そのうち1978年には球団初の屈辱となる最下位を味わった。


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