虎の事件簿

No.12 田淵幸一、人生最悪のデッドボール

法政大学で長嶋茂雄の六大学野球記録8本塁打をはるかに上回る22本塁打を放った田淵幸一が、1968年ドラフト1位で阪神タイガースに入団。ルーキーイヤーの1969年に22本の本塁打を放ち、新人王に選出された。


田淵は2年目も順調で、前年を上回るペースで本塁打を量産、1970年8月9日対大洋戦で21本目の本塁打を放ち、自身の記録にあと1本というところまできた。
そして、運命の1970年8月26日 対広島戦19回戦(甲子園)、田淵は6番捕手としてスタメン出場。広島の先発は外木場義郎だった。
田淵は第1打席、左肘に死球を受ける。
第2打席では前の打席で当てられているだけに、絶対打ってやろうという気持ちが田淵にあったと推測される。
一方、外木場は3回裏、4番遠井吾郎に満塁本塁打を浴び、5番バレンタインにセンター前ヒットを打たれて、なおも無死という状態が続き、相当頭に血が昇っていたと推測される。
そして、打席に6番田淵が入る。


その初球。外古場が投じた内角の速球を、打ち気満々の田淵は避け切れない。左側頭部にもろに死球を受け昏倒する。
左耳から血が溢れ出て、駆けつけたナインは死ぬかもしれないと思ったそうだ。
田淵は救急車で西宮市鳴尾の明和病院にかつぎこまれ、9月1日には大阪市福島区にある大阪厚生年金病院へ転院。精密検査の結果、全治3ヶ月と診断されて後半戦を欠場、10月14日まで入院生活を送った。
この死球が原因で、田淵の左耳は難聴になり、捕邪飛を追う際に方向感覚にズレが生じるようになってしまう。


実は、田淵は大学時代から内角球の逃げ方がうまくなかった。しかし、ホームランバッターである田淵に対し相手投手は内角を攻めるため、当然死球が多くなる。
これを憂慮した球団は、耳当てつきのヘルメットを準備していた。しかしこのヘルメットが届くのは、この死球があった翌日だった。
勝負事に「たら」「れば」は禁句だが、もしこの耳当てつきのヘルメットが1日早く届いていたら、田淵のその後の野球人生は大きく違っていたかもしれない。


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