No.11 バッキーの選手生命を断った乱闘事件
1968年9月18日、甲子園で巨人とのダブルヘッダーが行われた。
第2試合で先発したバッキーは不調で、初回に王貞治と末次民夫に死球を与え、味方のエラーも絡んで押し出しの1点を献上する。
四回、二死後に黒江透修にヒットを打たれた後、またしても味方がエラー。バッキーは、これに気落ちしたのか、土井正三、柴田勲、高田繁に3連打されて2失点。
そして、打席に王を迎える。
バッキーは王の第1打席で右わき腹にぶつけている。そして王の第2打席、初球に顔面すれすれの速球を投げ込み、2球目も際どい球を投げ込んだ。さすがに温厚な王もこれには憤慨。マウンドに近づき、バッキーに対して「誤解されるような投球はするな」と注意。次の瞬間、ベンチから両軍ナインが飛び出して、マウンド上で衝突した。
三塁側ベンチから勢いよく突っ込んできたのは、王の打撃の師匠である荒川博打撃コーチである。バッキーは荒川コーチに対し、ストレートパンチを見舞うが、右手親指を複雑骨折してしまう。この致命傷で事実上、バッキーの投手生命にピリオドが打たれる。荒川コーチも額に裂傷を負った。
この傷害事件に対して、尼崎簡易裁判所は、10月7日略式命令でバッキーに2万5千円の罰金を言い渡してる。
荒川博(あらかわ・ひろし)
1930年8月6日生まれ/早実−早大−毎日オリオンズ/左投左打/外野手
1953年毎日オリオンズ入団。1961年に現役引退。実働9年で出場試合数802試合、通算安打503本、本塁打16本、打点172、打率.251。
川上哲治監督のとき打撃コーチとして巨人に入閣。王貞治の一本足打法を考案、「世界のホームラン王」を育てた。集中力を高めさせるために日本刀を使った居合い切りをさせたことは有名。巨人コーチの後、ヤクルトスワローズのコーチを担当したのち監督に昇格したが、1976年には成績不振の責任をとり辞任。1999年日本ティーボール協会副会長に就任。2001年には荒川博野球塾を発足した。
ジーン・バッキー(Gene Bacque)
1937年8月12日生まれ/サウスウェスト大−米3A−阪神−近鉄/右投右打/投手
1962年夏にテスト入団。1964年には29勝をあげ、最優秀防御率(1.89)、最多勝、ベストナイン、沢村勝を受賞し、優勝に貢献。外国人初の開幕投手を務めた1965年には、5月2日巨人戦で2打席連続本塁打をはなち(投手の1試合2本塁打は球団初)、6月28日には巨人を相手にノーヒットノーランを達成。打503本、本塁打16本、打点172、打率.251。1969年に近鉄に移籍するが1勝も出来ず引退。生涯成績は、251試合登板、100勝80敗、防御率2.34、奪三振825。
引退後は高校教師を務めた後、牧場を経営。
