No.6 藤村富美男監督 排斥問題
1956年11月8日、当時主将だった金田正泰の自宅に、田宮謙次郎、徳網茂、白坂長栄、吉田義男、三宅秀史、小山正明ら主力選手が集い、ある会合が行われた。
それは、球団に対し、藤村富美男監督の退陣を要求しようという会合だった。
1950年の2リーグ分裂の際に、阪神は主力選手の多くを他球団に引き抜かれ、チーム力は激減。それにもかかわらず、松木謙治郎監督が就任して以降、チームが勝率5割を切ることは1度もなかった。
しかし、1954年7月25日に発生した大阪球場事件の責任をとる形で、松木監督は1954年のシーズン終了後に退団。
そしてこの時、松木は後任に藤村を推薦した。
ところが、当時のオーナー・野田誠三は、次期監督に岸一郎という人物を指名。しかし、岸は中央球界とのかかわりは極めて少なく、岸のことを知る人間は、ほとんど居なかった。
無名監督ということもあってか、選手からは支持されず、サインを無視されることもしばしば。藤村も代走を拒否したとされている。
1955年5月19日の国鉄スワローズとのダブルヘッダーを追えた時点で、チーム成績は16勝17敗。そのうち対巨人戦は1勝9敗だった。この巨人戦に対する成績不振が原因か、球団は5月21日、岸監督を病気休養(事実上の解任、わずか50日の短命監督に終わる)、藤村助監督に以後の指揮を任せる。
代理監督となった藤村は、1955年5月28日対巨人戦には自ら代打で登場して3ランを放ったり、正式な監督に就任した翌年1956年の6月24日対広島戦では、代打逆転満塁サヨナラホームランを放つなど、あいかわらず派手な活躍をし続けた。
しかし、ワンマンなところがあった藤村監督は、主力選手から反感を買うことになる。また、藤村はお金に対して、あまり執着心が無かったこともあり、契約更改時も球団の提示額をそのまま受け入れていたと言われている。阪神の一番の高給取である藤村の年棒が上がらない限り、他の選手の年棒もあがらないというわけで、こういった不満もあり、藤村監督を排斥する運動が起こってしまう。
そこで球団は、病床にあった球団代表の田中義一に代えて、阪神航空の東京出張所所長だった戸沢一隆を代表に就任させて、問題収拾にあたらせた。
球団は最大功労者である藤村監督を交代させる気は全く無かったので、排斥問題の首謀者・金田と、真田の2人を解雇し、反藤村派の崩壊を狙ったが、逆に反藤村派の態度が硬化してしまった。
その後、戸沢代表は選手の一人ひとりと対話をし、監督排斥の空気は選手個々に差があれど、現実よりも新聞記事が先行していることを知る。
藤村監督排斥問題は52日間も続いたが、戸田代表が、解雇された金田に対し、藤村退陣要求の撤回を条件に、金田自身の復帰を認めた(真田はそのまま現役引退)。これを機に他の主力選手の態度もしだいに軟化し、1956年12月30日、選手全員の契約更改が完了。戸沢代表、藤村監督、金田主将がそれぞれ声明書を発表し、内紛劇に終止符をうった。
戸沢一隆(とざわ・かずたか)
1907年生まれ/兵庫県出身/神戸ニ中−神戸高商(現神戸大)
1929年に阪神電鉄に入社。東京出張所所長を経て、1956年11月に球団代表、1960年に球団社長をつとめ、1974年10月に退任。
プロ野球のドラフト制度が導入されるようになってからは、毎年クジを引く係をつとめた。藤田平、江夏豊、田淵幸一、上田二朗、山本和行ら、阪神で活躍した選手を射止めていることから、「強運の持ち主」、「黄金の腕を持つ男」と呼ばれた。
