虎の事件簿

No.3 2リーグに分裂、主力選手が移籍

日本プロ野球は、1936年4月29日、大東京-名古屋戦が最初の公式戦として行われた。タイガースは金鯱軍と対戦し、3−0で勝利。球団最初の勝利投手は藤村富美男である。
それから14年後、野球界に大きな変化がもたらされることになる。


正力松太郎コミッショナーは、1リーグ8球団から10球団に増やす構想をいだき、毎日新聞社に働きかけた。そして1949年9月21日、毎日新聞社は日本野球連盟に加盟申請を行う。ところが、熱狂的なプロ野球ブームを反映してか、その後も西日本鉄道、大洋漁業、近畿日本鉄道、星野組、広島野球倶楽部が加盟申請を行う。
プロ野球の新規参入問題に対し、既存の8球団のうち巨人、中日、大陽は新球団の参入に反対。南海は消極的ではあるが最初は反対の姿勢。積極的賛成だったのは東急と大映の2球団で、阪神、阪急は中立または消極的賛成だった。
こうした意見の対立により、正力の1リーグ10球団構想は見直しを迫られることになる。
結局、1949年11月22日に行われた代表者会議にて、2リーグ制に移行することが決定。11月26日、14年の歴史を刻んだ日本野球連盟は解体された。


当時の新聞は「2リーグに分裂」という表現で報道した。連盟側は「2リーグに分立」という表現が適切だと主張したが、2リーグ制実施にあたっては8球団の意見が必ずしも一致していたわけではなく、むしろ喧嘩別れだったことから「分裂」という表現が正しいだろう。
ところで、新規参入問題では、巨人、中日、大陽と意見が合わなかったタイガースだが、リーグ分裂に際しては、巨人らのグループに参加した。
このタイガースの行動に対し、当時は"裏切り者"との声があがった。
かくして12月15日、大阪タイガース、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、大陽ロビンス(松竹ロビンス)の既存球団と、大洋漁業、西日本、広島カープス(のちにカープに改名)は、読売新聞社本館で代表者会議を開いて、セントラル野球連盟の結成を正式に決定。
そして、大陽は松竹の資本参加で12月1日以降は松竹ロビンスとなり。さらに1950年1月12日、新たに国鉄球団が編成されて、セ・リーグの初年度は8球団でのスタートとなった。
なお、大洋漁業はニックネームが決まるまで「まるは球団」としてオープン戦の試合を行っている。


2リーグ分裂に伴い、選手の引き抜き合戦が激しく繰り広げられ、また既存球団は新球団に対して何らかの形でテコ入れすることを義務付けられていたこともあり、多くの選手が移籍した。
毎日は選手の引き抜きに熱心に動き、タイガースの若林忠志監督兼投手を誘う。当時、若林は球団幹部との関係があまり良くなかったこともあり、毎日の要請に応じる。それに伴い、若林を慕う別当薫、呉昌征、本堂保次が行動を共にし、その後、土井垣武、大館勲も毎日オリオンズへ移籍。さらには長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前真佐人が大洋ホエールズへ去り、チーム力は著しく低下した。
それでもタイガースは意地を見せ、70勝67敗3分、勝率.511で4位とAクラスを確保。選手個人タイトルでは藤村富美男が首位打者を獲得した。
しかし、2リーグ時代が始まった以降、タイガースはAクラスは確保するものの優勝から遠ざかり、ようやく1962年に2リーグになってからの初優勝を果たすのだった。


毎日オリオンズ

毎日新聞社を親会社に1949年に結成。毎日新聞社は昭和初期には社会人野球の「大毎野球団」として活動していたが、正力松太郎コミッショナーの勧誘をきっかけに都市対抗野球の有力選手を加え球団を結成した。
2リーグ初年度、パシフィック優勝を果たし、セントラルの覇者松竹ロビンスとの日本選手権試合(この年だけ日本ワールドシリーズという名称で開催)では、4勝2敗で制した。


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