虎の事件簿

No.2 阪神と大陽の二重契約事件

現在、プロ野球選手になるためには、ドラフトで指名される必要がある。そして1選手に対する交渉権を得られるのは1球団だけである。しかし、ドラフト制度が導入されるのは1965年から。それまでは各球団が選手の契約に関し凌ぎを削っていた。そんな背景もあり、今ではあり得ない二重契約事件が発生したことがあった。


1948年、春の選抜高校野球と秋の国体に優勝した西京商業(春の選抜時は京都一商。4月の学生改革後、西京商業に移行)の投手・北本重二(きたもと・しげじ)は、阪神・田中義一常務と交渉し、入団することで合意した。
一方、阪神と同じく北本投手の獲得を目指していた大陽ロビンス(のちの松竹ロビンス、さらにその後大洋ホエールズと合併)は、北本投手の父・与一郎と交渉。そして北本投手本人が知らない間に、与一郎は大陽と契約の話をまとめてしまう。


この後、両球団は日本野球連盟宛に登録申請を行う。阪神は9月4日付けで申請、大陽の申請書は9月7日に連盟に届くが、書類の申請日は9月1日と阪神より早い日付だった。
この問題に対して、労働委員会は阪神、大陽の両球団の登録申請を却下。また北本投手側には下記の2点を要望した。


  1. 労働委員会に関する所要経費を負担すること
  2. 二重契約に関する責任の帰結を明らかにして、一方の契約解除に伴う
    義務を明確にすること

結局、この問題は契約日で遅れた阪神が折れる形で解決した。
それにしても、北本投手の名前は"重二"。入れかえると偶然"二重"になる・・・。


大陽ロビンス

大陽ロビンスの母体は「大東京軍」。ライオン歯磨本舗がスポンサーで「ライオン軍」となったが、後に田村駒商店に譲渡される。田村はこのチーム名を気に入り引き続き使用したが、1940年戦争の影響で球団名を日本語化することが理事会で決定。その際「ライオンは日本語」と改名を拒否するも、結局1941年「朝日軍」に改称する。
終戦後「パシフィック」として球界に復帰、翌1947年ニックネーム導入にともない「太陽ロビンス」と名称を改める。更にその翌年には「野球は点を取るスポーツ」とのオーナーの考えから「太陽」から点を取った「大陽ロビンス」に改名。
1950年には映画会社・松竹との資本提携により「松竹ロビンス」となりセ・リーグに加盟する。ちなみに松竹ロビンスはセ・リーグの初代チャンピオンである。


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